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愛山文庫(解説)


明治から大正初期にかけての史論家・評論家として有名な山路愛山の旧蔵書が当館に寄贈されて愛山文庫が設置されたのは1917年(大正6年)7月のことである。旧蔵者山路愛山は1864年(元治元年)12月26日、幕府天文方(旗本)の家に生れ、本名を弥吉といい、のち愛山と号した。明治維新後の変動で、その生家は没落し、青少年期を貧苦のうちにすごし、小学校は優秀な成績で卒業したが、進学することは経済的にできなかったので、自活、独学で小学校助教員になった。ときに16才、このころからキリスト教にひかれ、のち平岩愃保の導きで1886年(明治19年)頃受洗し、平岩の推薦で東洋英和学校(現在の麻布学園)に舎監として勤めるかたわら、神学を修めた。卒業後は静岡で約3年のあいだキリスト教の伝導に従った。ついで1892年(明治25年)徳富蘇峰の民友社に入ってから、本格的に論客として活躍し、以来、その健筆を縦横に走らせるようになった。その文筆に優れたことと、多方面にわたって独創的な見解を発表したことは著名である。その分野は文芸・歴史・政治・社会・時事問題などきわめて広く、また、その論文を掲載した雑誌、新聞も「女学雑誌」「国民之友」「国民新聞」にはじまり、「中央公論」「太陽」などの一流綜合雑誌から「女学世界」「中学世界」といった青少年向きのものまで巾広く種類もまたすこぶる多い。1899年(明治32年)蘇峰の推挙によって「信濃毎日新聞」に主筆として赴き、1903年(明治35年)には「独立評論」を自ら刊行し、1910年(明治43年)には「国民雑誌」を創刊し、1912年(大正元年)に「信濃日日新聞」が発刊されると、その主筆として再び信州に赴き、執筆に講演に多忙な日々をおくった。その間、本学をはじめ、早稲田、慶応などで講師として教壇に立ったこともあるが、1917年(大正6年)3月15日、この明治、大正の第一級の論客も、54才の生涯を閉じ東京青山墓地に葬られた。その著書もすこぶる多く、なかでも、「豊太閤」「西郷隆盛」「足利尊氏」「支那思想史」「基督教評論」「現代金権史」「社会主義管見」などが著名であり、また毛利家の「防長回天史」には編集主任として参画した。

愛山文庫は愛山歿後間もなく、大原孫三郎氏(実業家・社会事業家)によって当館に寄贈された。総冊数は3,568冊で、うち和漢書3,267冊、洋書301冊であり、その殆どが日本史関係のものであるのが特徴である。この文庫も、はじめは別置されていたと思われるが、何時のころからか一般図書と混排されてしまっているので、現在の正確な冊数は不明であるが、現在当館に保管されているカード式目録によると、「白石遺文」「柳営秘録」「文久秘録」「伊達兵部少輔逆乱記」「桜田落花記」などの写本、「回天実記」「維新史料」など1887年(明治20年)頃、野史台から編刊された図書の多くが含まれていることが知られる。なお、洋書のなかには明治期に広く読まれた「Guizo, F.P.G :General history of civilization in Europe」の9版アメリカ版などがあり、また、雑誌「旧幕府」も第1巻第1号(明治30年4月)から第5巻第7号(明治34年8月)までが揃っている。

「びぶりおてか」同志社大学図書館報4号(1969.2.1)より抜粋