1. 学術リポジトリホーム
  2. 貴重書コレクション
  3. 小室・沢辺紀念文庫(『海表異聞』解題)

小室・沢辺紀念文庫

『海表異聞』解題

滋賀大学経済学部附属史料館助教授 博士(文学) 岩﨑 奈緒子


「海表異聞」は、蝦夷地、ロシア、中国、台湾、琉球、朝鮮に関わる近世の記録類を集めたものである。全七九冊。編者は、序文に「徹桑土人」とあるが、詳しいことは不明である。編纂された時期についても定かではないが、叢書中に見える年代で最新のものは弘化四年(一八四七)である。すべての冊に「文鳳堂印」が押印されているが、この文鳳堂については、宮地正人氏のご教示によれば、松浦武四郎と親交のあった江戸の商人で、安政期頃まで生きた人物と推定される。なお、京都大学附属図書館には、大正五年(一九一六)に同志社本から一部を謄写した「海表異聞鈔」が所蔵されている。

一 各冊の内容

各冊の表紙には、子から巳までの干支と番号が付されている。それらは次に示すように地域分類を意味する。すなわち、子には蝦夷地・カラフト・満州に関わる三六冊が集められ、以下構成は、丑は中国・台湾で一〇冊、寅は小笠原で二冊、卯は琉球で六冊、辰は蝦夷地で二冊、巳はロシア・朝鮮で二二冊となっている。叢書の第1分冊は「惣目録」であるが、冊数に間違いがあるので、以下、各冊に即して簡単に内容を解説しよう。なお、叢書の書名はすべて外題を採用し、必要な場合は内題を付した。

①地域分類「子」=蝦夷地・カラフト・満州

子の分類中には、蝦夷地の地理・風俗に関わるものが多い。「蝦夷図説」(内題「蝦夷嶋奇観」)【第二~七分冊】は、蝦夷地を調査した幕府役人村上島之允が、アイヌ風俗を伝えるために残した画集である。寛政一二年(一八〇〇)の成立。「松前蝦夷行程記」【第八分冊】は、前半が、ソウヤを経てシレトコまでの西蝦夷地、後半がエトロフまでの東蝦夷地の行程を記したもので、著者は不明。「カラフト御詰合」との記述があるので、文化四年(一八〇七)以降のものである。「西蝦夷行程記」【第九分冊】は、文化五年六月にタカシマまで往復した人物が、文化二年の遠山金四郎による調査記録と対照させつつ行程を記す形式になっている。「三国通覧説」【第一一分冊】は、天明五年(一七八五)成立の林子平著「三国通覧図説」(『林子平全集』第二巻(第一書房、一九七九年)所収)から、「蝦夷」・「無人嶋」の章の解説部分を、「三国通覧図」【第一二分冊】は「蝦夷」の章の図の部分を抄出したものである。「蝦夷風土記」【第一三分冊】は、寛政初年に成立した新山質の著作で、カラフト、山丹についての記事も含まれる。

「蝦夷談筆記」【第一四分冊】は、幕府巡見使に随行して松前に渡った松宮観山が、アイヌ語通詞勘右衛門からの聞き書きをもとに、宝永七年(一七一〇)に著したものである。ただし、本書は後半の「シャムシャイン一揆の事」を欠く。「北海随筆」【第一五分冊】は元文四年(一七三九)の成立で、金山の探索のため蝦夷地に派遣された板倉源次郎の著述。「夷諺俗話」【第一六~一八分冊】は、寛政四年に幕府の御救交易に参加しソウヤまで出向いた串原正峯の著作で、成立は翌五年である。「東遊記」【第三三分冊】は平秩東作が松前に渡り江差で越年したときの見聞書。天明五年の成立である。以上、「蝦夷談筆記」から「東遊記」までは、『日本庶民生活史料集成』第四巻(三一書房、一九六九年)に収められており、詳細な解説が付されている。

「北島志/松前図/丙午漂夷之図」【第三二分冊】は、松前城下の絵図、弘化年間にエトロフに渡来したアメリカ人の図、そして、享保五年(一七二〇)成立の新井白石著「北島志」(内題「蝦夷志」が一般的)を収める。「蝦夷志」は蝦夷地についての初の体系的な地理書で、『新井白石全集』第三巻(国書刊行会、一九七七年復刻)・『北方未公開古文書集成』第一巻(叢文社、一九七九年)に載せられている。「蝦夷記行」【第三六分冊】は、幕府の御雇医師館野瑞元が、文化四年に任地のソウヤへ赴いた折の紀行で、長橋右膳宛の日記形式の書簡である。高倉新一郎編『犀川会資料』(北海道出版企画センター、一九八二年)に掲載。また、辰に分類されているが、「蝦夷拾遺」【第五七分冊】も蝦夷地の風俗の記録である。天明年間に田沼意次が派遣した佐藤玄六郎ら幕府役人が記したもので、千島やカラフトの情報も含む。『北門叢書』第一冊(国書刊行会、一九七二年)に収載されている。

以上が蝦夷地の地理、風俗に関わるものだが、他に蝦夷地関連のものとして、アイヌ語の語彙集「蝦夷方言」(内題「蝦夷人言葉集」)【第一〇分冊】がある。本書は、北海道大学北方資料室蔵「蝦夷方言」とは異なる。また、「蝦夷開墾策」(内題「蝦夷土地開発成就して良国と可成事」)【第一九分冊】は、寛政元年成立の本多利明著「蝦夷拾遺」から、ロシアに先んじて蝦夷地を開発する必要を説いた、本書の内題と同一の章を収め、「証ある世話」という章の内、ロシア船の日本近海、特に日本海への進出を警告した部分を後半に載せる。「蝦夷拾遺」は、『近世社会経済学説体系 本多利明集』(誠文堂、一九三五年)に掲載されている。

「蝦夷乱記并勢州松坂七郎兵衛船エトロフ漂流記」【第二二分冊】と「蝦夷一揆興廃記」【第二六~二七分冊】はシャクシャインの戦いに関わる記録である。前者は「蝦夷談筆記」の後半部「シャムシャイン一揆の事」の異本「蝦夷乱記事」で、後半に、寛文年間にエトロフに漂着した伊勢松坂の七郎兵衛の体験談を収める。国立国会図書館が本書と同じ構成の「寛文蝦夷乱記」を所蔵している他、七郎兵衛の漂着記の異本が、『江戸漂流記総集』第一巻(日本評論社、一九九二年)に「勢州船北海漂着記」として掲載されている。後者は、「蝦夷談筆記」の記録を下敷きにした講談風の読み物で、『北方史史料集成』第四巻(北海道出版企画センター、一九九八年)に収載されている。

「東遊記附」【第三四分冊】と「東夷物産誌」【第三七分冊】は松前・蝦夷地の産物についての記録である。前者は本来「東遊記」【第三三分冊】と一巻を成す。後者は寛政一一年の成立で、幕府の採薬使として東蝦夷地に派遣された渋江長伯に同行した土岐新甫の著作である。

カラフト関連として、まず、「唐太以西見聞」(内題「唐太白主と申所より西方見聞仕候処左之通御座候」)【第二〇分冊】は、カラフト西部についての記録である。筆者については、奥に「天明年中最上徳内ト云者ハ内命ヲ奉シテ蝦夷ノ地方ヲ跋渉シ歴観スル所ヲ筆記シテ奉レルナリ」とある。しかし、徳内がカラフトを訪れたのは寛政・文化期であり、同じ内題と奥書を持つ同内容の写本「唐太嶋見分書」(道立文書館所蔵)に付された、寛政三年に巡見した松前藩士松前平角らの著作という河野常吉の注記に従うべきであろう。「北蝦夷島記」(内題「北蝦夷島新説」)【第三五分冊】は、文化五・六年の探検に基づく、カラフトの状況についての間宮林蔵の口述を、村上貞助が筆記したもの。『北門叢書』第二冊「北蝦夷図説」巻之一の部分にあたるが、図は本書の方が多い。

満州に関わるものは、「東韃紀行」【第二八~二九分冊】と「女直始末」【第三一分冊】である。前者は文化五年、間宮林蔵がカラフトから黒竜江を遡り、満州仮府のあるデレンまで出向いた際の記録で、同八年の成立。黒竜江付近の先住民についての情報が豊富で、『日本庶民生活史料集成』第四巻に「東韃地方紀行」として掲載されている。「女直始末」(内題「建州女直始末」、「女直」を「女真」と表記したものが一般的)は清朝建国の経緯を、明朝第二代成祖皇帝の時代から説き起こしたものである。安永期の成立で、荻生北渓の著作である。「異国物語」【第三〇分冊】は、寛永二一年(一六四四)五月に朝鮮国境近くの沿海州に漂着した後北京に送られ、清の成立時期に遭遇した越前三国の廻船の漂流記である。近年の刊本としては、『江戸漂流記総集』第一巻の「韃靼漂流記」がある。

「赤人乱妨一件」【第二三冊】・「千葉政之進筆記」【第二四冊】・「久保田見達筆記」【第二五冊】は、文化四年のロシア船によるエトロフ襲撃事件に関わるものである。「赤人乱妨一件」は、扉に「文化四年丁卯四月魯西亜[リュス]国艦船弐艘蝦夷地東北月多六福[エトロフ]島へ渡来ニ付御届書并被仰渡書」とあり、内容は、松前藩と奥羽諸藩からの届書や仰渡の写である。これに類した写本は数多く残っている(『日本北辺関係旧記目録』北海道大学図書刊行会、一九九〇年)。「千葉政之進筆記」は、エトロフ警衛のために派遣されていた南部藩士千葉政之進の事件の目撃談で、平田篤胤の編んだ「千島の白浪」にも収められている。「久保田見達筆記」は、幕府の御雇医師としてエトロフに滞在していた久保田見達の体験記録で、内題の「北地日記」が一般に知られた書名である。また、幕府御雇医師新楽閑叟の編んだ「二叟譚奇」の序が付してあり、「二叟譚奇」の中から、「北地日記」のみを写したものであることがわかる。千葉と久保田の両筆記は、『北方史史料集成』第五巻(一九九四年)に翻刻されており、事件の経緯についても簡潔な解説がある。

「蝦夷雑記」【第二一分冊】は、前掲本多利明著「蝦夷拾遺」中の「証ある世話」の章から、ウルップで安永期に起こったエトロフアイヌとロシア人の紛争事件の聞き書き部分、寛政一一年の東蝦夷地上知の際の趣意書、蝦夷地掛の名簿、幕府役人細見権十郎らが熊を仕留めた一件記録を収める。二つ目、四つ目の史料は、「休明光記」(『新撰北海道史』第五巻)に収載。辰に分類されている「寛政年間見聞一件/蝦夷地キイタッフ領之内」【第五六分冊】は、ラクスマン来航を知らせる松前藩の届の他、寛政一一年の東蝦夷地上知の趣意書(「蝦夷雑記」のものと同じ)、文化期のエトロフ・カラフトのロシア襲撃事件に際しての幕府の対応や警衛に関わる記録を収める。

②地域分類「丑」=中国

「享保年中深見調書」【第三八冊】は、荻生北渓が深見有隣を介して享保一〇年に来日した清の儒者朱佩章から、清の政治、地理、歴史、風俗、文化について聞き取った記録である。別名「清朝探事」・「大清朝野問答」。

「支那漂流記」【第三九~四〇冊】の前半は、元禄年間に中国普陀山に漂流した讃岐塩飽島の牛島源左衛門船の乗組員の口上書、後半は宝暦期に福建に漂流した南部の六人の口書。前者は『通航一覧』第五巻二百二十五に収録。後者は、『通航一覧』第五巻二百十八・京都大学附属図書館所蔵「海外異聞」巻二一「福建 宝暦元年 奥州南部」に収載されている。「支那漂流記」【第四一~四四冊】は、宝暦期に仙台気仙沼村の船が寧波に漂流した記録と、台湾に漂着した後福建、杭州へと送られた大坂富田屋吉左衛門の天徳丸の文化年間の漂流記。前者は、口書部分などが『通航一覧』第五巻二百二十五に収録されている他、記述に若干違いは見られるが、「海外異聞」巻二三「淅江 宝暦四年 伝兵衛」と内容は同じである。

「房州江唐船漂着記」【第四五冊】は、元文四年安房に異国人が漂着した際の、村方・代官・大名の届書類である。「羅紗・もうせん」を着し「丈六尺」で「頭髪薄く赤」いという漂着者の身なりの叙述を見る限り、彼らは必ずしも中国人とは思われない。これと同一のものが、京大「海外異聞」には巻一九「阿蘭陀著岸 元文四年 房州」として収められており、本書の分類され方には疑問が残る。「游房筆語」【第四六冊】は、安永九年(一七八〇)の成立で、安房千倉浜に漂着した中国人と伊東藍田の対話記録。京大「海外異聞」巻一〇に収載されている。

台湾に関するものは、「台湾漂流/浜田弥兵衛一件」【第四七冊】のみである。本書前半は、宝暦年間志摩布施村の船頭小平次が乗り組む小型船が台湾に漂流した記録である。『江戸漂流記総集』第二巻に「志州船台湾漂着話」として掲載されている。後半は、寛文期に末次平蔵の船が、福建へ向かう途中立ち寄った台湾でオランダ人に襲われた際、長崎の浜田弥兵衛なる人物がオランダ人をとらえた事件についての記録。

③地域分類「寅」=小笠原

「小笠原島記并漂流記」【第四八冊】は、小笠原島の発見者とされる小笠原貞頼の子孫を名乗る小笠原貞任らの提出した由緒書の他、産物の記録などを前半に載せ、後半は、元文三年に江戸堀江町宮本善八乗り組みの船が鳥島に漂着し、その二〇年前に漂着して以来同島で生活していた遠州新井の漂流者とともに帰還した際の口上書である。なお鳥島漂流記については、別種の記録であるが、『江戸漂流記総集』第一巻に「遠州船無人島物語」と「無人島漂着八丈島浦手形ほか」がある。「小笠原島漂流記」(内題「阿南漂白実記」)【第四九冊】は、弘化二年(一八四五)アメリカの捕鯨船に救出された阿波の廻船幸宝丸と下総の千手丸の漂流・救出の記録である。本書が寅に分類されているのは、幸宝丸が鳥島に漂着していたことによる。この事件については、『江戸漂流記総集』第四巻に、「阿州船幸宝丸漂流記」・「乙巳漂客記聞」が載せてある。

④地域分類「卯」=琉球

「南島志」【第五〇~五一分冊】は、享保四年に成立した新井白石による琉球の地理書。『新井白石全集』第三巻に掲載されている。「三国通覧琉球部」【第五四分冊】は、「三国通覧図説」から「琉球」の章を抄出したもの。

「琉客談記」【第五二分冊】は、寛政八年に琉球謝恩使が江戸に来た際、かつて清へ渡ったことのある使節二人に朝貢貿易の様子を尋ねた時の記録。赤崎海門の著で翌九年の成立である。「定西法師伝」【第五三分冊】は、元和年中に七〇歳代であった定西法師が、若い頃に琉球に滞在したときの物語。京大「海外異聞」巻一にも収載されている。「遵将烟帆略陳上閲」【第五五分冊】は、一八四四年に琉球に渡来し交易を求めたフランス使節と琉球王府の間の往復書簡。フランス、琉球双方の漢文書簡を三通づつ収め、後半に和解を載せる。但し順不同。書名「遵将烟帆略陳上閲」は、三通目の書簡の冒頭の一節をとったもの。

⑤地域分類「辰」=蝦夷地

子の分類で言及した。

⑥地域分類「巳」=ロシア・朝鮮

ロシアの地理に関わるものとして、まず、「三国通覧魯」【第五八~五九分冊】は、「三国通覧補遺」の写本。この翻刻を載せる『林子平全集』第二巻の解説によれば、林子平の「三国通覧図説」の補遺に見せかけているが、内容は工藤平助の「赤蝦夷風説考」に同じであるという。「魯西亜志」【第七〇~七一分冊】はロシアの地誌で、桂川甫周がオランダ書から翻訳したもの。寛政五年の成立である。

「船長日記」【第六二~六六分冊】は、文化一〇年に出帆し一年四ヶ月の漂流の後イギリス船に助けられ、カムチャッカに滞在の後帰国した名古屋の船頭重助の記録。池田寛親が重助から聞き取り著した。文政五年の成立。『江戸漂流記総集』第三巻に所収されている。「磯吉・光太夫漂流」【第七二~七三分冊】は、寛政年間の大黒屋幸太夫のロシア漂流に関わる記録である。上巻は、漂流の経緯、ロシア事情についての幸太夫・磯吉の聞取り、将軍家斉上覧の際に行われた問答を記録した桂川甫周編「漂流民上覧之記」から成る。下巻の前半は、磯吉と幸太夫の処遇についての記録であるが、上巻とこの部分は、『江戸漂流記総集』第三巻に「大黒屋光太夫ロシア漂流一件」として掲載されている。下巻後半は、ラクスマンのネムロ入津に際しての松前藩の届けと幕府の対応についての記録である。「仙台左平・津太夫漂流」【第七四~七六分冊】は、上巻が「仙台の者魯西亜国漂流記」で漂流の次第とロシア事情についての長崎奉行所での陳述書。中巻「魯西亜之様子」と下巻「魯西亜国江漂流人口書同所風俗」は、ロシア事情についての二人の陳述書で内容は同じだが、文章は異なっている。他にロシア漂流記は、「太三郎の記」【第七七分冊】がある。これは、戌年に箱館から仙台へ向かい、仙台を出帆後漂流したところを異国船に助けられ、カムチャッカに滞在した人物の記録。漂流の時期や人物について本文中に情報が無く、特定できなかった。

「魯西亜エレサノフ渡来記」(内題「文化元年甲子九月魯西亜[リュス]船渡来之記」【第六〇分冊】は、文化元年(一八〇四)にレザノフが長崎に来航した折の日露の対話記録や国書の和解、通商要請を拒否する旨の長崎奉行の申渡・奉書等を収める。「魯西亜渡来一件」【第六七~六九分冊】は、寛政五年に箱館で信牌を与えたことから予想される、ラクスマンの長崎来航への対応策にまつわる公文書類を収める。

「英国侵犯事略」[英:原文は口偏に英]【第六一分冊】は、第一次アヘン戦争の記録。筑波大学所蔵の「英国侵犯事略和解」の巻末には、「右風説書之通和解差上申上候」とあって、オランダ風説書であることがわかる。本書はむしろ中国の分類に入れるべきものであろう。本叢書の最後「朝鮮人来聘記」【第七八~七九分冊】が唯一朝鮮に関わる書物である。享保四年に朝鮮通信使を江戸で迎えた際の記録で、京大「海外異聞」巻一六の「朝鮮来朝記」が延宝・天和期の来朝記録までを含むのに対して、本書の後半は、「三国通覧図説」から「朝鮮」を抄出したものになっている。

二 本書の成立過程について

本叢書の中には、表紙の見返しに貼りつけてある紙に反故を用いたものがある。そこには叢書の成立過程に関わっていくつかの有用な情報が残されているので紹介しよう。

まず、「磯吉・幸太夫漂流」【第七二分冊】には、冒頭に「海外異聞巻ノ二拾」とある他、【第六二分冊】の表紙見返しの裏張には、「海外異聞巻之十三」との表記が見える。「海外異聞」は近世の漂流記を多く集めた叢書である。内容解説でも触れたが、京都大学附属図書館所蔵の「海外異聞」と本叢書を対照すると、同一の書物が五組確認される。京大の「海外異聞」は欠本が多いので十分な比較とはいえないが、本叢書の編纂に際して、「海外異聞」を参考にしていた可能性は指摘できよう。

次に、叢書の成立過程について、把握できた限りでは四つの段階に分けられる。

最初は東南アジアを含む叢書として構想されていた段階である。五冊の見返しの裏には、次のような目録が書かれている。

海表異聞丑集目録【第一五分冊】
一三国□□
一魯西亜志*
○帝□魯西亜旧志
○魯西亜本紀 千島の白波
三磯吉光太夫魯西亜漂流記*
○北槎聞略 但巻数多故別分
四左平津太夫魯西亜国漂流記*
環海異聞 但巻数別分
五文化元年魯西亜国エレザノフ渡来記*
遭厄記事

海表異聞寅集【第一五分冊】
一小笠原島全図*
一小笠原宮内由緒書*
一遠州荒井甚八・仁三郎無人島漂流記*
一江戸堀江町富屋武兵衛無人島漂流記*
一阿波撫養徳之丞下総銚子湊重助無人島漂流記*

海表異聞卯集目録【第一八分冊】
一南島志* 三国通説*
三琉客談記*
四定西法師伝*
○琉球本草
○琉球談
○琉球年代記
○琉球状
○琉球人行列附
○払朗察人琉球渡来一件*

海表異聞辰集目録【第四一分冊】
○台湾国
一志州布施田村小平次嘉兵衛漂流記*
一浜田弥兵衛武勇物語*
○同図 萬図新話より抄出
○朱一賓一乱実録
○林荘二賊一乱記

海表異聞午集目録【第一七分冊】
○唐土海□地理図 海国見聞録より抄出
一越後国[ママ:讃岐国の誤り]塩飽島牛島源右衛門普陀山漂流記*
一奥州白浜村又五郎・伊七郎福建漂流記*
一仙台気仙沼村伝兵衛・嘉兵衛舟山漂流記*
一房州長挟郡天津村唐船漂着記*
一游房筆語*
○漂海記 判事一冊
二唐土行程記

海表異聞未集目録【第一六分冊】
一広東漂流記
奥州相馬中村嘉兵衛・松三郎漂流記
奥州松前善吉広東漂流記
戊申漂流記
南漂記
常州多阿郡磯原村左平太郎介安南漂流記
奥州磐前郡小名浜七兵衛・九平次安南漂流記

海表異聞申集目録【第一七分冊】
筑前唐泊浦孫七□□[ボルネオ]漂流記

尾張国知多郡甚右衛門・三蔵巴且漂流記
瓜哇おはる文、長崎夜話草より抄出

山田仁右衛門興亡之記

(*は現叢書中に含まれる書名)

子集と巳集を欠いているが、これによれば、丑集にロシア、寅集に小笠原、卯集に琉球、辰集に台湾、午集に中国、未集に中国・ベトナムへの漂流記、申集に東南アジア関連のものが集められている。

次は、東南アジアが脱落するなど、書物の選定が進められた段階である。現叢書全七九冊の内六七冊には、裏表紙見返しに張られた紙の裏側、小口と罫下(地)の角隅に番号が付されている。欠番・重複も見られるが、この順に並べてみると、一~二八が蝦夷地、二九~四六がロシア、四七~四八が小笠原、四九~五五が琉球、五六が台湾、五七~五八が朝鮮、五九~六七が中国という配列になる。この地域分類の配列を右に掲げた目録と比較すると、欠落していた子集の位置に蝦夷地が、巳集の位置に朝鮮が入り、申集の東南アジアが脱落した他は、右の目録と同じ配列になっている。また、右の目録では、現叢書に含まれる*を付した書名はむしろ少なくなっており、東南アジア関連に限らず未集の中国・ベトナムへの漂流記など、脱落した書名の方が数は多い。右の目録の段階から書籍の選定が進められたことがうかがえる。

第三段階は、台湾が中国の地域分類に統合された段階である。現叢書の表紙を見ると、干支の部分に書き直しの跡が観察されるものがある。ロシアの巳は「丑」を書き直したものであるし、中国の丑は「午」を、台湾の丑は「午」を訂正した形になっている。すなわち、ロシアという地域分類の位置は最初の段階を踏襲し、第一段階で辰集に分類されていた台湾が午集の中国に統合され後尾に回されたことがわかる。
そして最終段階が、ロシアと朝鮮が統合され配置替えされた現叢書である。結局、丑集に配置されていたロシアは朝鮮と統合され巳の位置に移され、午集の中国がロシアの占めていた位置に入り、現叢書の配列となった。また、現叢書では辰に蝦夷地関係の二点が配列されているが、【第五七分冊】の表紙を見ると「子」を辰に書き直したものとなっており、台湾を中国と統合したために欠落することになった辰の部分に、蝦夷地関係から二点を移したものと推定される。