1. 学術リポジトリホーム
  2. 貴重書コレクション
  3. その他(和書・踏絵:日本行紀 35篇13冊附考3巻3冊)

その他(和書・踏絵)

日本行紀 35篇13冊附考3巻3冊

第1分冊序・発端・第1篇第9分冊第24-26篇
第2分冊第2-4篇第10分冊第27-29篇
第3分冊第5-7篇第11分冊第30-31篇
第4分冊第8-9篇第12分冊第32-34篇
第5分冊第10-11篇第13分冊第35-36篇
第6分冊第12-15篇第14分冊附考 第1巻
第7分冊第16-19篇第15分冊附考 第2巻
第8分冊第20-23篇第16分冊附考 第3巻

画家ハイネ著「日本行紀」を紹介しよう。ヴィルヘルム・ハイネ(Heine, Wilhelm, 1827-1885)はドレスデン生まれの画家・旅行家で、ペリー日本遠征の報を聞くと、ペリー艦隊に加わり、遠征途中の各地の人間・風物をスケッチし、それらの絵は後で整理されホークス編「ペリー日本遠征記」を飾る事になった。又、同時に彼はペリー艦隊に従って航海中、各寄港地から、故国ドイツに残した肉親への手紙の形で、原稿をも書き続け、「遠征記」の姉妹篇とも云える「日本行紀」を書き上げた。原本(ドイツ語版)は1856年ライプチヒで刊行、2冊本である(Reise um die erde nach Japan…)〔荒木文庫(貴)新290.9;H7〕又、オランダ語版〔一冊本〕(Reis om de wereld naar Japan…)やフランス語版〔一冊本〕(Voyage autour du monde. Le Japon…)も作られた。同大図所蔵のハイネ著「日本行紀」(荒木文庫(貴)新291.09;P7-1b)はオランダ語版全文からの邦訳である(和綴じ16冊〔35篇13冊附考3巻3冊、縦26.4cm 横18.4cm〕で、本文は和紙の無罫であるが、漢字平仮名交じりで細書されている。そして、各冊に「元山文庫」と「堀田氏印」の蔵印(朱印)があり、第2冊には訂正の朱筆がある。なお、16冊のどこを捜索しても訳業の由来・事跡等の記録及び奥書は見当たらない)。

「史学」27巻4号(昭29)の幸田成友「ペリー日本遠征記」の日本最初の日本訳」によると、博士は「日本行紀」を手にされた時、初めはホークス編「ペリー日本遠征記」の日本最初の訳である手塚節蔵(大築拙蔵)・工藤岩次訳「彼理日本紀行」と思われたが、充分なる考証の後、オランダ語版からの重訳のハイネ著「日本行紀」と断定された。次に、「何人が如何なる動機で何年に本書を翻訳したか、確証を挙げて説明し難い」と言われ、本文等を種々検討後、「日本行紀」の翻訳年代を文久3年(1863年)以前と推定された。又、手にされた「日本行紀」には「越国文庫」と「図書寮」の蔵印があり、「幕末の外交問題に重きをなした越前福井の藩主松平春獄が家臣に命じて本書を訳せしめ、一部を御手許本として身辺に備え、一部を同藩の文庫に納れて藩士の子弟に閲覧を許したとすれば、想像だけでも随分面白いではないか」と述べられ、ハイネ行紀の訳業の全貌が明らかになるのを期待されていた。

そして、昭和58年に中井晶夫訳「ハイネ世界周航日本への旅(新異国叢書第Ⅱ輯2)〔新210.5;S4〕が出版され、初めて現代語訳が出た(但し、日本に関する部分と付録の一部の訳であり、ペリー艦隊の帰路にあたる第三十篇珊維知島(サンドウイッチ諸島、後のハワイ)から第三十五篇リオデジャネイロまでは訳されていない)。ところが、その解説に「幕府がこのオランダ語版の存在を知って訳させたものが、大日本維新史料に掲載されている」と明示があり、すぐさま、「大日本維新史料 第2編の5」(文部省編、昭18)〔新210.61;D〕に掲載された箇所と同大図所蔵のハイネ行紀の該当箇所を対照してみた。あに図らんや、前者が漢字片仮名交じり文で、後者が漢字平仮名交じり文であるが、該当箇所は全てに渡り、文言は同一だ。

「大日本維新史料 第2編の5」のP.346には〔日本行記○ハイネ著〔日本行世界周航記〕蕃所調所教授方訳島津忠重所蔵本。如此ナレハ久シク懇請シタル日本ト貿易ノ条約モ逐ニ定マリ、……と掲載されている(この箇所は原本第二十二篇会議にて和親決定之事の最後の部分である)。このハイネ行紀オランダ語版は1856年に発行され、蕃所調所の名称時期は安政3年(1856年)~文久2年(1862年)までなので、翻訳の年代はこの間であろう(岩波の「国書総目録」(新025.1;K)をみると、「日本行紀」の見出しで、(成)万延二とある。成立年代は1861年の初めだ。版本はなく写本ばかりで、全訳16冊のものは見当たらない)。又、「江戸幕府旧蔵蘭所総合目録」(新028.235;N)をひもとくと、P.20に、Heine,Wのもとに彼のオランダ語版が記載され、さらに印記は<蕃所調所>、貼紙は「……千八百五十六年 日本行紀 一、全一冊 中巳八月上旬備中守殿ヨリ求……」と明示がある。

ここで、倉沢剛著「幕末教育史の研究一」(新372.1;K34)等を参考にして、このハイネ行紀の訳業に触れてみよう。ペリー黒船の来航によって長い眠りから目覚めた幕府がとった積極的政策は、まず外国文書翻訳を司る訳官及びその機関の充実となって表れ、勝海舟等の努力によって「蕃所調所」が設立され、日本各地から第一級の洋学者が集められ、そこでは洋学を教授し洋書の翻訳を取り扱ったが、同時に洋書の収集及び蕃書・翻訳書の検閲も行われた。その頃の蕃所調所の教授方一覧には、手塚律蔵(堀田備中守家来、佐倉藩)、西周明〔後の西周〕(堀田備中守家来、佐倉藩)等が見られる。

ここで、「蘭書目録」ハイネ行紀の「貼紙」等をも参考にして、大胆な推測をするならば、蕃所調所は1857年八月上旬にハイネ行紀オランダ語版、備中守(堀田正睦)から得て、1861年初めに翻訳を完了し、それが蕃所調所教授方訳「日本行記」となり、又、蕃所調所には全国から俊英の洋学者が集まっていて、佐倉藩の連中もその訳された「日本行記」を写本し、藩に持ち帰ったか送ったとも考えられる。黒船来航依頼、どの藩も新しい状勢に積極的な対応が急務な折、ペリー関係の訳書は情報として欲しいところだ。その写本が同大図所蔵本であるのかも知れない。

次に、全くこの逆の事も想像できる。当時、佐倉藩は「西の長崎・東の佐倉」と言われた程、洋学の盛んな所、しかも藩主堀田正睦は「蘭癖」と称されたハイカラ主義者、長崎からハイネ行紀の蘭書を入手、早速、藩の俊英の蘭学者に訳せしめたとも推測できる(同大図所蔵本には「堀田氏印」と「元山文庫」の蔵印(朱印)がある。堀田備中守正睦ほ雅号を「見山」と称し、「見山侯」と呼ばれていた。「見山」は「元山」とも印刻できるので、「元山文庫」は堀田正睦の文庫印とも思える。この頃(1855年~1858年)、正睦は再度老中になり、ハリスとの条約交渉等、開国に向けて奔走していた)。その後、まずハイネ行紀の蘭書が、正睦から1857年に、そして少し遅れて佐倉藩訳「日本行紀」の写本が蕃所調所の手に渡った可能性もある。蕃所調所では既存の翻訳書の収集及び検閲も行われていたので、検閲も兼ねて、それを写本したのが蕃所調所教授方訳「日本行記」となったとも想定できる。すれば、同大図所蔵本は、堀田正睦の御手許備付本であり、ハイネ著「日本行紀」邦訳の原本になるが……。

「びぶりおてか」同志社大学図書館報23号(1978.4.1)より